駄目だ……

半月使ってそのままって、このままじゃ非常に駄目だ。
という事で10文字日記とは名ばかりに、ここでは色々な事を書こうと思う。
読者そっちのけ。
(コメントかいてくれたメッサーには申し訳ないがログは全て消えます。
 ちなみに、脳足りん〜はシドの曲「吉開学17歳(無職)」の歌詞です)
何故なら10文字なんて少ない字数で表せるのはシュールじゃなくて少ない情報でしかないという事だ。
端的に言うと、書いている俺でも面白くない。つまりそう言うことだ。

ということで、記念すべき新装1回目(新装したのは自分の心境)はゲーム論。

俺はゲームが好きで好きでしょうがない人間だが、それはアナログでもデジタルでも同じ事だ。
最新作のコンシューマゲームに興味を湧かせもするし、トランプで出来る未知のゲームにも興味は尽きない。
それは何故かと言うと、その2つに共通する部分とその差異が好きで好きで仕方が無いからだ。

両者の共通点する楽しみ方は「ルールによって制限された楽しみ」であり、
アナログには無い差異は「出来るだけルールに束縛されない楽しみ」である。

アナログゲームにおいて、ルールは最も重要なものである。
モノポリーの紙幣でフルハウスを作る事に何の価値がある?
モノポリーモノポリーのルールで戦うからこそモノポリーたり得るのだ。
同じトランプを使っていたとしても、ポーカーで手札のペアを捨てて相手とババの争奪戦をしては話にならない。
ルールは厳格に定められ、そこから1歩でも踏み出すとルール違反となる。
それがアナログゲームにおけるルールの価値だ。
その中で出来る事から考え、そこに楽しみを見出す。
ワンペアだけ揃ってはいるがあとその片割れを捨てるとフラッシュになるかも……
このスリルはルールによって裏付けされている。
ルールが存在しなければ、山札からエースを4枚出るまでめくり続けた者が勝つ。

しかし、デジタルだとそれだけがゲームだとは限らない。
最低限のルールが定められ、その規定さえ守れば何をしても自由であるゲームが存在する。
それは自分で出来る事を模索し、実行し、楽しむ。
例えばどこでもいっしょというゲーム。
新しいものがどうだかは知らないが、昔は言葉を教えるゲームだった。
正しい意味を教え、出来る限り会話を成り立たせるようにしていくという目標があった。
しかし、中には滅茶苦茶な意味を教えて冷笑し、マニアックな言葉ばかり教えて悦に浸る輩がいた。
(因みに、俺のトロは話をするたびに「ハラキリ」を食べたがる奴だったので俺は冷笑していた。困った奴だなぁ)
それだけには限らず、他にも数々の「自由度をウリにしたゲーム」が存在するだろう。

「結局1つでもルールに制限されているんだったら根本的には同じ事じゃないか」
という疑問は御門違いである。俺が言いたいのは楽しむベクトルの違いである。
言い換えれば、アナログゲームは相手がいて始めて成立するが、デジタルでは1人で十分プレイできるという違いだ。
デジタルゲームにおいて、自由度の高さ=1人で楽しむ度合なのである。
相手が存在する度合が高いほどルールが必要であり、自由度は損なわれていく。
その比率がゲームの総合的な面白さを決め、しかも共通の黄金率は存在しないのだ。
100種類のゲームがあれば100種類の最適なバランスが存在する。
それがデジタルゲームにおける難しさであり、アナログゲームを淘汰しつつあるパワーなのだ。

とまぁウダウダやっておりましたが、結論だけ申しますと

「自由度とルールはトレードオフの関係にある」という事です。

さて、次回は「どんなバランスがどんなジャンルのゲームに適しているか」という事を話します。
アナログゲームの話はココでストップ。
矢張り読者ほッポリだしなので推敲もしません。文字の排泄行為アハアハアハーン。