嘘・筒井康隆全集より

「何でも記号化すれば簡単になるとしたって、それは記号でしかなく、それにまつわることで血は流れても、それ自体には無機しか感じられない。血を感じるのは読み手と書き手の関係があるからに他ならない」
――「芸人殺しの空手家大集合」より引用

何 ぉ という汎用性の高い(=どうとでも取れるような)言葉であるが故に、その依存率は高く、何でも自分の文章に(何 や(ぉ を付けることによってその文章に色々な効能を付加する事が出来るのだ。
例えば、自分が思い上がっているかのような文章を書いた後に(何 を付加することにより「俺、そんなこと本当は思ってないんだよ、ボケだってボケ! あはははは、何言ってるんだろうね俺ってばあはははは」という語尾が読み手各々によって付け加えられるのである。
これは非常に不愉快である。
自分の書いた文章が不敬に当たるかもしれ無いと思うや否や、すぐに(何 (ぉ で打ち消す事によって事なきを得ようと言うのだ。
これによって自分の文章に(何 (ぉ を乱発し、相手の心に傷をつけないように気を配っているという表向きをするのである。
汎用性が高いために読み手が最善の判断をしてくれると思い込み、それが当然であるかのように振舞う。
その結果、文章自体が傍若無人・意味不明となり、それでいて「それでもこうやって自分で正しているんだから許してくれるんでしょ?」というふてぶてしさを感じるのである。

想像して欲しい、実際のツッコミにおいて、最も汎用的なものは「何でやねん」あるとしよう。
会話しているときに偉そうな事や突拍子もないことを言い、その後人に向かっていきなり「何でやねん」とツッコミを入れる自分の姿を。
精神病でなければ、よほど独特なセンスの持ち主である。少なくとも、私は知人にも居て欲しくないほどサムさキモさを感じるのである。
ここで「しかし、先ほど言ったように読み手が勝手に解釈してくれるのだからオールマイティで良いではないか」という反論をするかもしれない。
昔に議論された(笑)のように、どのような笑いであるか分からない表現は、読み手や話の内容によって修正され細かい意味での笑いに変化する。
しかし、この(笑)でも問題になったように、読み手の解釈は最善ではなく、精神状態に依存する厄介なものであるという点を忘れてはなら無い。
相手が怒っているときにメールなどで「そう怒るなって(笑)」と送った場合、喧嘩を売っているとしか思われない場合だって十分ありうるであろう。
オールマイティとは、最悪の解釈すらありうるということに他ならないのだ。
相手の神経を逆撫でした前例があるというのに、それでもまだ使い続ける「オールマイティ解釈記号」には、悪意以外の何物も感じない。
しかも、まだ先輩である(笑)ですら市民権の確立を済ませていないのである。
であるから(爆笑 (微笑 などといったオールマイティ性のある程度コントロールした表現が発生し、この問題の緩和に役立っている。
最終的にはほぼ100%(≒実際に目の前で笑って見せるのと同程度)の説明文を付加すれば誤解はなくなるのだが、そこは利便性によって多少の犠牲となり、簡略化はある程度許されるようになる。
ならば、(何 (ぉ もある程度説明文を増やす事によって誤解や不敬さを軽減する事が可能なはずである。
何せ、(笑)などよりもはるかに説明しやすいのが(何 (ぉ である。
漫才にツッコミが無限にあるのと同じように、自分の文章も具体的に否定できるはずである。