連続小説始めました1

私は後輩に誘われるがまま、奴の言う行きつけのバーに辿り着いた。
送別会の二次会ということもあり、その送別の対象がその後輩である事も手伝い、仕方無しに誘いに乗ってやる事にしたのだ。二次会も喧しい居酒屋というのは嫌だったし、私自身にもバーという響きに疼くような興味が湧いたのも事実だった。
私も学生時代には若さ特有の無茶というか躁病的な勢いに任せ、親の脛をかじっている身分とは思えないくらいの高級なバーに行き月のバイト代をほとんどフイにしたことがあったのだが、それ以来バーに顔を出すということはなく、とても久々の経験だったのだ。
外装は煉瓦造りでとてもシックだったが、店の中に入ってみてもそれに定着するかのように内装もクラシックが合うような落ち着く雰囲気で、居酒屋の喧騒に飽き飽きしていた私に沁み込ませた。
店には安っぽい笑顔を振り撒くレジ係も居ないし、注文するたびにマニュアル通り復唱し「喜んで!」と叫ぶ奴等も居ない。ただ、若い女のバーテンと、その親ともとれるくらい老齢の男のバーテンが並んでグラスを拭いているだけだった。客は誰も居ない。それも、私には新鮮な感覚であり、そして懐かしさを感じさせていた。
学生時代には先述した躁があったため、こんな店の雰囲気よりも値段に心を奪われ、自分が偉くなったのではないかという錯覚と共にそれを台無しにするように大騒ぎして迷惑をかけたものだが、今の私には店の本体というか、雰囲気の中核にあるような何かに吸い付くような魅力を感じていた。
一次会ですっかり出来上がってしまっていた後輩は「わたし、この店に良く彼氏と飲みに来るんですよ」と、千鳥足で後輩は道中口癖の様に繰り返していた。だが、老バーテンが発する初めての台詞は「初めまして。ようこそいらっしゃいました」であった。彼女はそれに頓着するほどの理性もなくなっており、私に絡ませていた腕を突き放すように解き、グテンと最寄のカウンター席に座り突っ伏してしまった。
私は「すみません、ここに座っても良いでしょうか?」と緊張しながら聞いてみた。学生のときを思い出すとよくあれだけ横柄な口をきけたものだと呆れるほど強きだったのだが、社会に出て15年もしてみると場の雰囲気とマナーを肌で感じることが出来る様になっており、それが如何に恥ずかしい思い出でであるかを強く感じていた。それがより一層に緊張をもたらせていたことは確かであろうと、何故か俯瞰して自己分析している自分が居た。
老バーテンは「どうぞ、今日は予約が一件も御座いませんので」と、とても温和な笑顔を見せた。小柄で禿頭の、和服を着流せばとても似合いそうなバーテンは私が席について一息ついたのを見計らって拭いていたグラスを棚に戻すと、私にオーダーを尋ねた。
すると、後輩はガバと起き出し、「わたしブランデー飲みたい」とこの店で出すには大きな声で言って虚ろな目をこちらに向け、また突っ伏した。
私は解けた緊張を引き戻し、「実は、学生時代に格好つけて通ったきり、十数年もこういった場所にきたことがなくて、どういう風に頼めばよかったのかも覚えてないんです」とだけ頑張って言った。無知を曝け出す感覚は学生時代では有得ない様な恥ずかしさだが、それでも社会経験は最悪な状況を想定してそれを回避するように仕向けさせた。聞くは一時に恥、である、とまた何処か頭の中で客観的な自分が私自身を諭している。酔うとよくこういう状態になるな、と今度は本体の自分が思った。昔はその場の恥さえ回避できれば、その後の更なる恥など考えずに動いていたものだ。一番高いものを頼めば格好良いのだという意志で頼んだ当時のブランデーの味なんかは、緊張に呑まれた末の悪い酩酊に追いやられて一切覚えていない。私の頭の中に居る1人が、記憶を持ってきて説教してくれたようだった。
女バーテンもグラスを戻し、「では、こちらの方は大分召し上がっていらっしゃるようなので、こちらなど如何でしょうか」と、シェイカーに材料を注ぎ小気味良いテンポで縦に振った。木製のカウンターは高く出来ており、彼女が何を入れたかまでは分からなかった。
そしてショートスタイルのカクテルグラスに注ぎ、例えが貧相で悪いのだがコーヒー牛乳のような色のカクテルを彼女のコースターに置いた。
それを作るまでの鮮やかな手並みを見終えてから、自分のオーダーをしていないことに気付いた。居酒屋でゲップをするほど飲んだビールをまた頼む気分にはなれなかったので、「私には何かでハイボールを作って下さい」と言った。今度は老バーテンが「かしこまりました」と頷き、ロングスタイルのグラスにlaphroaigと書かれた白いラベルのウィスキーを注ぎ、それに炭酸水を入れて私にくれ、そして何か棒の様なものをその手前に置いた。
「これは何ですか?」と問うと、彼は「竹を削って、炭にならない程度に焦がしたものです」と言い、また温和そうな笑顔で「ラフロイグのスモーキーさとはまた違った匂いを感じていただければと思いまして」と言った。
私はまだ完全に混ざっていないままにハイボールを飲み、確かに感じる独特な燻製臭を口で嗅いだ。その後に、例の竹に鼻を近づけると、深みを感じる酒の匂いの代わりに澄んだイメージを与える何とも例え難い匂いを感じた。竹を焦がした匂いとしか言えないような、竹の青さと燃殻の香ばしさを持ち合わせたような匂い。
私がその差異の繰り返しをニ三度楽しんだ後、老バーテンは「よろしければ、マドラー代わりに竹で混ぜてみて下さい」と言った。
私は言われたとおりにし、泡立ちすぎて溢れないように静かに混ぜ、一口飲んだ。
口に入れ、胃に流し、息を吐いたときの感動を、どう表現すれば良いだろうか。
私は、溢れんばかりの豊かな(スモーキーであるのに豊かであるというしかないほどの)匂いに驚き、感動し、長くちびちびと楽しんだ。
老バーテンは私の驚きように安堵というよりも満足げに笑みながら、「スモーキーな香りは水よりも炭酸水の方が楽しめると思いまして」と、また先ほどとは違うグラスを手に取り、拭き始めた。