雪璃女史の詩を勝手に批評するよ。

雪璃女史とメッセで会話したところそれが彼女の創作意欲を刺激する内容であったらしく、会話終了後に2つの作品をアップなさった。(http://fate.s47.xrea.com/mf/text/t_frame.html内の「銀色光灯」と「掌」)
前々から申している通り、彼女とは随分と作風が違う(というよりも土俵が違うとさえ言うべきかもしれない)のであまり巧い事は出来ないかもしれないが、創作意欲を刺激させてしまった責任と、そこまで真剣に話を聞いてくれていたのかという喜びを含めて感想及び批評等を。


銀色光灯も掌も秋の詩と見て問題ない。兎に落ち葉であり哀愁で冷涼なのである。
両者とも日本人が連想する秋であり、正直に言ってしまえば「やりやすい題材」であるといえるだろう。今回はどちらかと言えば深読みし易い銀色光灯を掘り下げていく。


銀色光灯という題は造語であろうか。銀色に光る灯りとは月光を指し、兎の登場に対し導入し易い前準備をしてくれる。(極めて個人的な意見ではあるが、物語全体を題で表すとしたら「銀色紅灯」なんていうのも悪くない気がする。紅灯という言葉自体が兎の目(赤)を通した月の光という表現と、酸漿を通した月の光という二重の意味を持ち、より一層秋を感じさせるように思えた)
台詞部分を平仮名のみで表記した辺りは雪璃女史御得意の童話的ポップさで内容のゴシックさをより一層引き立たせるという手法である。事実効果をあげているし、隠れている中身のカモフラージュとしても悪くない。
さて、勝手な噛み砕き方ではあるがこの詩は死に関するものであると考える。
目の赤い兎は日本の家畜として固定化されたものであり、野兎に目の赤いものはほぼ居ないと考えてよい。よって、家畜(ないしペット)が野生に戻り我が家を探しているというストーリーと見るのが妥当ではなかろうか。しかし、当然ながら家畜たる主人公にそんな物はあるはずもなく、ただ希望を断たぬ様に「きっとのはらのむこうがわ」と、あるはずもない遠い故郷を思う。
「だってみんなまっくろなんです」「まあるいあかるいものがない」は兎=月の住人を連想されるかもしれないが、明るいものとは屋内の電灯であり、夜の暗さを知らない者の嘆きである。
そして悲しみに身を浸し適合できない兎は死に、「野原の向こうの空の上」である月に帰る。
それを「兎は月に帰れてめでたしめでたし」とポップなハッピーエンドに取るのは簡単であるが、死によってしか安息の故郷へ辿り着けないその悲哀はとても重々しいものがあるといえるだろう。
それこそがこの作品の落す翳であり、決してただの「素人童話もどき」にさせない地金であるといえる。
さて、毒を含んだポップ詩といえば雪璃女史というイメージが定着してきているが、今回は言葉ではなく内容自体に毒を含ませた詩と読んだ。その御蔭で読後感がずっしりとしており、不吉でおどろおどろしい言葉の羅列に終始しない良作であると私は評価した。