持論かつ時論かつ自論

馴れ合いっぽくてちょっと嫌なんですが、タスク氏が拙作に対応する形で詩をコメントとして書いてくれていて、それをまとめて御自身の日記にアップされております。
(参照URL:http://www.doblog.com/weblog/myblog/25736/2615833#2615833


ここで俺のがどうとかタスク氏のがどうとか言うのは本格的に馴れ合いなので避ける(馴れ合った方が良い場合も当然沢山あります)として、ここで論じたいというか話として取り上げたいのは「言葉ってのは面白いなぁ」っていうことに尽きます。
結局のところ詩を生み出す作業っていうのは金になってないし金にする努力もしてないので完全に趣味の域を出てないのですが、そんな糞の足しにもならないことを何でやっているかというと、それはただただ楽しいって面白いって感じているからです。それ以外はありません。
で、ここで「何で面白いのかなぁ」っていうところに行き着くと薄っぺらな答えがパッと出るか厚くて重すぎる答えが待ち構えていて一生眠れないという事態に陥るので回避するとして、とりあえずは楽しいとか面白いと思った瞬間を羅列することで茶を濁すことにすします。因みに俺は濁ってんじゃねぇかってくらい濃く煎れた茶が好きです。因み過ぎました失礼。


で、楽しいなぁって思うところは随所にあってそれはその瞬間に「おおっ」と思ってはいたものの、ものの数瞬で理由を忘れちまう種類のものであったりする場合が多いのでここで挙げられるのは結構平凡なものだったりします。
例えば一節の美しさ。
全体的に見れば平凡や退屈な詩であればあるほどコントラストが見事になるのですが、本当に言葉ってのは組み合わせでこんなに綺麗に見せられるもんなんだなぁって感激する場合があります。
例はちょっと出しづらいので自分で誰かの作品見て実感してみて下さい。何でも実感するのは良いことです。
で、次はもう完全にオナニーなんですが、自分の作品を見てその時の出来や感情を思い起こして苦笑い等することです。これが非常に面白い。たまに俺がこんなん書いてたのかよ!なんていう良作がポコって出てくるんですがこれはオナニーの極致なんで割愛。
人それぞれ作風ってもんはあると思うんですが、俺は絶対にテメェの気持ちに影響されて作品を作りたくないっていうのが基調としてあります。
どちらかと言えば職人的な考えかもしれませんが、俺が表現したいのはあくまで技巧であって感情じゃねぇってとこで、ヒトの感情に訴えかけるのが俺の作品であって、自分の感情の表現ではないっつーことです。なので詩を書くときは飽くまでcoolに。狂った様な詩でも、如何に狂ったように見えるかcoolにcoolに心掛けております。
でも、やっぱり詩ってもんを書いている以上なんか浮ついたアレが存在すると詩の方に影響を与えていたりして、今から思い返してみると昔であればあるほどそういった傾向が強くて試行錯誤している自分を見て嗚呼と苦笑い。
こん時の俺は今よりも増してあたふたやってんだなぁとか、ここはこの言葉の方がシックリくるだろとか脳内でツッコミ入れるのも面白くて、過去の自分リミックスみたいなことやるのも結構な快感です。それが正の方向か負の方向かは別問題として。
でも、結果的にその浮ついたアレが詩を激烈にヨく見せたりなんて結果オーライ的な事例も何個かあったりして(無題ドラマティック時代に散見)それはそれで、やっぱ言葉って面白いなぁって思うわけですよ。
今は昔と比べて平均して良いもんが書けてるかもしれないけれど、最高のフレーズってのはもしかしたら昔にポロっと出しちまってて、もう一生それを超えることはないんじゃないかとか。


言葉ってのは、理論が確定していなくてただただサンプルを増やして結果に一喜一憂している実験みたいなもん


そう結論付けて思うのは、結局美しいのは完全な理論による遂行だけど、楽しいとは対極の位置にあるよねってこと。
その「楽しい」を数字に見出したもんは本当の意味で理系なんだろうし、文字に見出した奴はその逆なんじゃねぇかな。
なんて思ったところでオヤスミの時間なんでオヤスミ!


久々にぐちゃぐちゃに垂れ流した駄文書いてて思ったんですけど、これって結構パワー要りますね。
酒飲み話でこういうことやったらいくらもやれんのにね!(泥酔するまでは)