リクエストに御応えして。

今回の日記に関しては雪璃女史以外の苦情その他を一切受け付けません。
という前置きで。
勝手に雪璃女史の詩を解釈しましょうのコーナー!(未承諾)
*雪璃女史に「止めろやボケ」と言われたら速攻で消します。涙目で。

まずは、雪璃女史の詩全般に見られる特徴を挙げていきます。
雪璃女史の詩には根底にスタンスを感じる気がします。
それは、詩を通して伝えようとするものが「1つの画像」ないし「1つの動画」であるという事です。
印象的なワンシーン、刺激的なワンページを詩という形式で表現しているように見えないでしょうか。
写真やビデオでは実際にある画像を写し出せますが、心の中に浮かぶイメージはカメラで写すことは出来ないのです。
それを、文字にすることで表現していくスタンス。
それが根本に存在する詩作が雪璃女史の特徴といえるのではないでしょうか。
それらの特徴は、イメージは鮮烈に焼きつきパッと脳内でイメージに変換できる反面、伝えたい事は何なのかというメッセージ性に乏しく、読み返すたびの発見という喜びが期待し辛いという欠点も持ち合わせております。
鮮烈なイメージの中にでもどっかりと胡座をかいているような、滲み出る重さを表す”核”を作り出すことが雪璃女史の課題ではないでしょうか。
しかし、実際カタカタとモノクロの画像が映写機から流れ出てくるような雰囲気と、白黒・モノクロ・カラーと「色の区別を文字で作り出す」鮮やかな手際は一級品と言えましょう。

さて、前述しましたとおり彼女の心象をアウトプットしているわけですから、彼女の作風自体に彼女の心理風景が映し出されていると言っても過言ではないと思いませんか?
多少レトロな文体を意識しているであろう、明治大正を彷彿とさせる言葉遣い。
時折見せる、それとは対照的に直接的でクリアな表現。
オカルトチックなビジュアルをふんだんに仕込み、グロい言葉を綺麗という感想に昇華させる手法。
自己と他者の混合による問題提起であるにも関わらず、より主観的に、内面に内面に潜り込んで行く心理。
これらが雪璃女史の詩作における特徴であり、内面を表す”何か”を内包していると私は勘ぐったわけです。

さて、次は個々の詩に対する解釈を。

まず、最初は紅宴-深紅-。
矢張りパッと風景が出てきます。私の場合はこんな絵でした。
下町調の古臭い路地で、誰も見ていない人形劇をしている誰か。
姿は夕暮れも過ぎた闇で伺う事は出来ない。
アスファルトで整備された道路と、木でできている朽ちかけた壁のアンバランス。
外灯が不安げに明滅を繰り返し、蛾や羽虫がたかる。
劇の舞台には2体の人形。基本的な造詣は一緒だが、服装の違いで男女の区別がされている。
明らかに女性の服を着た人形が壊れており、何度も継ぎ接ぎされた痕が見受けられる。
一方、男性の人形は綺麗なまま。共通するのは気持ちが悪いくらい人形っぽいデフォルメされた造詣だけ。
外灯が照らすのはその埃にまみれた奇劇の舞台。
男の子の人形は女の子に鋸を渡します。女の子はそれをバイオリンの弓みたいに弾き熟します。
肩からは木屑が飛び散りますが、彼女は幸せそうな笑顔のまま。
彼女は何故か左手で弓を弾き、自分の右肩をばっさりと切り取ってしまいます。
それでも笑顔の彼女は、誰も見ていない舞台を笑顔のまま続けます。
男の子の人形は彼女がいかにグロテスクな出し物をしているか知っています。
客に媚びた声で話し掛けるつもりの彼女が発する声は絶叫のような痛ましい声。
スカートがふわりと回転させたつもりでも、彼女の視点が回転したからそう見えただけに過ぎません。
踊って見せても振り付けに肝心な腕が地面を撫で、不恰好で君の悪い物になっています。
ですが、彼女は幸せそのものの笑顔です。
男の子の人形は唯一の観客である黒猫を見つけますが、女の子はそれに見向きもしません。
しかし、幕も閉まろうとする頃、彼女は急に泣き始めます。
「どうしたの?」
「私、貴方の瞳に映る自分の姿をみちゃったわ」
「それがどうかしたのかい?」
「だって、非道い姿じゃない」
「自分がそうだと気付かなかったのかい?」
「うん、貴方みたいに綺麗な姿だと思っていたわ。だから誇らしく踊ってきたわ」
「だけど、君の瞳に映る僕だって君と同じ顔をしているんだよ」
彼女はそれを慰めと感じて、最後に何も無い客席に礼をします。
頭を下げると首からゴトリ。幕は何も無かったかのように下りて行きます。
「君みたいな汚らしいキチガイと同じ顔だなんて、泣きたいのは僕のほうだよ」
幕が閉まりきった舞台の中で、綺麗な男の子は呟きました。
きっとボロボろになった彼女は直されて、また舞台に立つでしょう。
そして、男の子はまたバイオリンの代わりに鋸を渡すのでしょう。
男の子は礼をしません。
はめ込み式の首は一度外れてしまうと外れ癖がついて、その度に彼女のようになってしまうでしょうから。

ここまでが、あの詩から滲み出るエッセンスを自分なりのフィルタで濾過して小説に変えたモノだと思って下さい。
描写に関しては文と文の間を読むような肉付けがされていますが、それが私の中でしっくりと来るイメージだったので。

この詩で秀逸と思われる箇所は下からの5行に限るでしょう。
「私を見た貴方を見た」を見やすく分解すると「私を見た貴方」を「私が見た」わけです。
これは、瞳に映った自分を見たという意味で間違えないでしょう。
貴方を単純に見たというだけではなく、そこに映る自分を見る。それがこの詩の肝要な部分です。
要するに、彼女は自分の姿を見て泣いている訳です。
「貴方の瞳に映る私を見た」と安直に表現せず、「私を見た貴方を見た」とすることで加わる意味は
「貴方」と「私」を見比べると途轍もない違いがあるということです。
という事は、貴方と私は同じものであったか、それに近いものであったと推測できますね。
これが自己の投影だったのかどうかは読み手の判断次第でしょう。
次に、「拍手喝采」「ごとり、首」という語呂のよさと言葉のシナジー
音読してみて下さい。言葉と語呂の切れ味が尋常じゃありません。

さて、では逆に、この詩の弱い部分を見てみましょう。
まず、語の数を完全に御してないため、リズムにのって読めないという点が挙げられます。
大体は揃えているのに、中盤が多少厚ぼったくなってしまっています。
語呂よく読ませることで内容と形式が”劇調”にリンクして、よる引き込ませる事が可能だったでしょうに、惜しい事です。
ここは多少内容を変えてでも語呂を合わせるべきだったでしょう。
折角の「拍手喝采」「ごとり、首」が泣きかねません。
次に、不吉さとグロさを言葉に頼り過ぎている感が強いという事です。
赤、夜、月、猫、人形、吊るす(=suspension)など。工夫して使わないと食傷してしまいます。
月光や外灯が糸のように人形を吊るす(または、糸が月光に照らされて光って見える)イメージは幻想的ですが、この詩のオカルティックな詩風にはそぐわない感じもします。

最後に、この詩を別の解釈に当てはめてみるとこんな感じにも読めます。
人形=人間
舞台=社会
演技する人形=ペルソナ
もう1つの人形=心の底
ペルソナが媚びて痛々しい演技をする姿を、心の底で嘆く人。
何かがきっかけとなって心の底から見る自分に気付き、狂うか死にたくなる様な気持ちになる。
要するに、自分の表面側に嫌悪を示しているよという事ですね。
まぁ、誰しも表と裏があり、それに苦しみ嫌悪することだってあるでしょう。
その苦悩を人一倍感じてしまった精神状態の人のお話ですよ、と。
それが雪璃女史かどうかはともかく、書きたかったのはそこじゃないでしょうか。

前者の解釈を中心に据え、後者を隠蔽しようとする確信犯的意志が見え隠れしております。
本題は後者だったのでしょうが、それにしては自分の滑稽さを示す描写が長すぎるので。
ちょっと思春期的な内容だったので、オカルティックに煙に撒いてみました――そんな感じです。

今回はモノゴッツク長くなってしまったのでここまで。
次回からは描写を小説風に説明する必要があるものはなさそうなので、簡潔になると思います。
自分の詩や小説そっちのけで何やっているんだ自分といったところですが、
ここで注意書きを追加。

分かっていると思いますが解釈なんて人それぞれです。
作者と同じ解釈なんてほぼありえないでしょう。
偉そうな事を書いておりますが、作者にしてみたら「なんじゃっこりゃ?」というトンデモ解説かもしれません。
ですが、これが雪璃女史の詩を読むきっかけ、読み直すきっかけ、自分の解釈と比べて考えてみるきっかけ。
そんなものになれば幸いです。

あと、雪璃女史がこれを見ないか見ない振り、または許可なんてしてくれることを祈りつつ。
それでも無断で続くぜい!(しかも自サイトそっちのけ)