お応え後半。

昨日の続きですよ。
今のところ何も言われてないので調子乗って書いちゃいます。

至上の果て
ポジティブで比較的今風な綺麗さを前面に押し出している作品です。
前へ、上へ、未来へ。顧みず、振り向かず、ただただ先にある道を。
多少偏執的ではありますが、希望に対する喜びを感じさせます。
しかし、どうして全体を通すと透明な印象を受けないのでしょうか?
それは「まっしろな夢の終わりには いつの朝も 頬濡らして目を覚ますけど」という箇所によるものです。
前に前に進み、進めなくなってしまった夢(=死)の終わり(=覚醒・新しい生)には涙する。
遠い明日(=至上にたどり着く未来)までの軌跡は、決して無駄にならないから、進め。
ここに、まっくろな闇(=前に進む疲労、苦しみ、痛み)を感じる事が出来ます。
前に進むことを繰り返し、何時になったら辿りつけるのだろう?
途方も無い旅路――その苦悩を忘れるために、盲目的に足を進める。
その境地が「次は 空見上げて微笑むだろう」であり、極彩色の至上であるわけです。
そんな狂信が透明である事を拒んでいる、そう思えてなりません。
弱点としてあげると、紅宴-深紅- と比べてグッと来るフレーズがないのが原因だと思うのですが、
浮かぶイメージがぼやけている点でマイナスです。
全体を楽しむ用の作品だと言えましょう。単体のフレーズを噛み締めても総じて薄味です。

哀蝶花
もろに昔風味な言語なので、現代語訳しますとこんな感じです。
あの夜を境にして(色恋の)花が落ちてしまいました。
あれから、何年かが過ぎ去りました。
夜の蝶(貴男)が恋しい。あの遠い頃を夢見て眠っています。
遠い昔から聞こえるあの哀歌が、八年経った今でも色褪せません。
髪も白くなるほどに思うのは、恋の花咲くあの頃と、それに群がる貴男の事ばかりの悲しい唄ばかりです。
古典が決定的に駄目な人間の訳なので大体こんなん、っつー感じで読んで下さい。
つくももつづらも九十九と書くため、これは白々という意味であると思われます。
(九十九は百に一足りないため、白(髪)という意味になります)
ですから、白々と夜が明けるまで思い続けるという意味と、白髪になってしまうくらい思い続けるという意味の「掛け」であると考えるのが妥当でしょう。
文法的に正しいのかも分かりませんが、時系列がオカシイ気もします。
単純に離別を惜しむ女性の話なのですが、文字の数の割には内容が薄い感が強いです。
短歌の字数で十分歌いきれるのでは、とういうのが正直な感想です。
深く読めてないだけかもしれませんが、そこらへんは情報求むということで。

野分ヶ丘
「染め抜き通すまで呪い合おう」に尽きます。
それ以前はその前振りで、と言い切りたくなるような切れ味です。
不吉な描写の連続の収縮がこの一点に活かされております。
逆に、この言葉が無かったら駄作としかならなかったでしょう。
時代物ファンタジのアニメかコミックを見ているようなチープ(在り来たり)感があるのですが、
雨の中で身体を呪詛や怨念が染め抜く情景が、一気に到来したクライマックスを実感させます。
今流行のカタルシスを感じさせる表現ではないでしょうか。

標本箱
白い天板(=机の板表部)・音も風も無い・ケース越し。
ここらの表現で人を虫に変換していると考えるか、標本箱を精神病室に考えるか。
私は後者に考えましたので、以下のような感じで言葉を捉えましたよ。
硝子ケース越しの夢……観察されながら生きていく精神を病んだ生活
自慢の翅も肢体も全部曝け出したまま……自分達の気持ちを全く隠す事のないまま
どうか気持ちまで縫い止めて……精神を病んでいくから、今の愛を忘れぬよう縫いとめてくれと願う気持ち
幸せなままで時を止めて……辛い事を全て忘れてしまった、狂ってしまった自分たちの世界の中で固定され

宵闇トンネル
序盤は雰囲気と語呂合わせ、本題は「赤い口広げた謀殺者」です。
これは一体何者なのでしょうか。まずは、この詩におけるトンネルの意義を探しましょう。
トンネルが怪談スポットとなるのは、トンネルが終わらない闇を象徴しているからに他なりません。
その中に迷い込ませようと大口開けて待っているトンネル。これは恐ろしいものです。
そして、これは子供の視点から見る「路地をトンネルに見立てた」場合であると考えられます。
この場合、謀殺者は見知らぬ大人となりますね。
誘拐か殺害かレイプか分かりませんが、怪しい大人がにやりと笑っているわけです。
トンネルみたいにそびえ立つ壁に怯える子供に飴玉もってる手の鳴る方へ→飴玉差し出す手の生る方へ。
遅くなると怒られちゃうから、暗くて怖い近道を。
飴玉食べたら帰りましょう。僕のアパートへ帰りましょう。
こんな感じのホラーでしょうか。
何となく子供の絶望感を感じさせず、捕まった時点でブチっと話が切れているのがよいですね。
飴を舐めている子供の肩に、後ろから両手を置く影。夕方の真っ赤な空と、路地の影が作る真っ黒の対比。
ここでブツっ、ザーザーと砂嵐。
きっとその時の子供は、その大人への不安や親への恐怖心は吹き飛んでいたのでしょう。
何とも言えない映像主義的な詩作でした。雪璃女史の地力が露する佳作ではないでしょうか。




と、こんな具合でやってきました雪璃女史の詩に対する解釈ですが、新作が出来るまでは終わりです。
御題と一部の詩には手を入れていませんが、御題は数が多すぎるから断念しました。
残りの一部には、残念ながら解説するべき場所を見出せなかったので省略です。
もっと深読みできれば良かったのですが、自分の力量を恥ずばかりです。
最新作の「Fondue」に関しては最早それっぽい言葉の連続としか……申し訳ない。
こんな風に詩の解釈をしたり、ここはこうする方が、とかそんな話をしてみたいと思いました。
今度酒でも飲んでリラックスしながら、そんな集まりは如何でしょうか。
御後も良ろしく、麝香でした。