たまにはこんなん。

働かざる者喰うべからず。
ならば働けないものは喰えずに死ぬのか。


据え膳食わぬは男の恥。
ならば目の前に餓死しかけている赤子を前に、持て成しの食事を差し出すのは恥なのか。


今げっぷをして、無理して飯を掻き込もうとしている君。
それを喰い貯めたものと思って、明日の食費は浮かせてみてはどうだろう。


過食症で困りつつも自分をデブと卑下して余計ストレスを溜め込んでいる君。
手に持つチョコレートを1つだけ我慢して、明日のストレスのために取っておいてはどうだろう。


拒食症で食べたものを吐き戻してしまう君。
どうせ食べても吐いてしまうのだったら、今日の食事くらいは抜きにしようじゃないか。


それで少しだけ余った金とチョコレートと1日分の食事、それだけを持って、スーダンに出かけよう。
汚い臭い死体と死体になりかけている人間の山の中に、その手に持つ金とチョコレートと食事を投げ込んで。
彼等がしっかりと生きる可能性を繋ぐのを眺めていこう。
ついでに、1回のAVを借りるの我慢して、1回長電話を我慢して、1回リストカットを我慢して。
それで、AVでオナニーする時間を使って、長電話の相手と一緒に、マキロンと清潔な包帯を持ってスーダンに出かけよう。
きっと僕等には絶えられない死と狂気の中、そっと死に行きそうな彼等に包帯を巻いてやろう。


それで助かる命は、確かに今存在する。
僕等の1食分の金で、彼等は数日分の食料を手にするだろう。
僕等がちょっと腹を空かせるだけで、彼等の腹は十分に満たされ続けるのだ。
だから、僕等は何かするごとに、ちょっと考えてみようじゃないか。
これを我慢すれば、何人の命が救えるだろう。
何人の命が、この些細な事で絶たれてしまうのだろうって。
さぁ、今手に持つパンをほら、持ってスーダンに出かけよう。



結局、理論とか抜きにして感じてしまう事ってあるじゃないですか。
ぶっちゃけ避難民は何人も死んだとして、それを支援をしようとしても単純に良い事ではない。
それは分かっているつもりです。
食糧支援を政府間でしても、政府が外貨獲得のために再輸出してしまえば、避難民には何一つ得る物はありません。
直接車を使って援助をしようとしても、道路の荒廃とゲリラの攻撃の所為で難しいでしょう。
ゲリラのRPGに怯えながら、ヘリで食料を投下するのが関の山です。
そんな中、必要なのはゲリラの根絶。そのために必要なのは国の力。
でも、半端に支援を続ける事が、余計に国の判断を長引かせているとすれば?
その国が腐っているのであれば、他の国が何とかするしかない。
でも、我々は武力介入できない国に生きている。
じゃあどうする? また日本から恥さらしのボランティアを出すのか?
人質に取られて結局事態の邪魔にしかならないのに、偉そうに助けを請うのか?
その人質解放に使われた費用が、何万人の1日を救えると思うんだ?
結局、言いたいことはこういうことである。


愛の対極にあるのは憎しみではない。無関心である。美の対極にあるのは醜さではない。無関心である。知の対極にあるのは無知ではない。それもまた無関心てある。平和の対極にあるのは戦争ではない。無関心である。生の対極にあるのは死ではない。無関心、生と死に対する無関心である。
エリ・ヴィーゼル


僕等は何も出来ないかもしれないし、何もしないほうが良いのかもしれない。
でも、関心を持つくらいなら、きっとできるはずだろう。
今日は丁度十五夜だ。
御月様に、世界の平和をお祈りするくらいなら、きっとできるはずだろう?