蟋蟀。

その日は冷える夜だった。駅から我が家に帰るまでの間、気付かず早足になっている。
そのくらい冷える、秋も深まったある日の事だ。
私は帰るなりすぐに玄関で「ただいまー!」と叫び、靴を脱ぎ散らかして(自覚はあるのだが、気付いたときには靴を脱ぎ散らかしており、直す気力も残っていない)温かい居間に一直線。
このじれったい気持ちを分かって貰えるだろうか。
家族全員がストーブとカーペットで武装された暖かい居間でくつろいでいる様を想像するだけで、世界を憎悪したくなる私の気持ちを。
私は居間に到着するなり上着も脱がず、父がちびちびと楽しんでいた熱燗を徳利ごとつかんで一気に飲み干し、一息付いた所で私と長年付き合って行動原理を理解している母がテーブルに料理を並べた。
それこそまるで積年の恨みを晴らすかのように物凄い勢いで平らげた私を、同じく私と長年付き合って行動原理を理解しているはずの父が、みみっちく御猪口で日本酒をちびちび舐めながら、呆然と私の醜態を見つめている。
ほとんど同じ回数の食事を共にしていても、父と母では私を見る視点が違うようだ。
そして私も彼等と付き合いが長い為、その差異も理解しているつもりだ。
妹はダイエットとか何とかできな粉とかヨーグルトとかすりゴマとか卵白とかを混ぜてもさもさじゅるじゅる食べている。
白いベースに黒と黄土色のマーブル、その上に浮かぶ所在無さげな透明。
粗食というより、これは既にこの世にはないはずの何かだ、私に言わせれば。
私を恨めしげに見つめながら地球外食品をすする妹を余所目に、私は男爵コロッケ4つとポテトサラダ山盛り、炊き込みご飯に味噌汁にビール2缶を腹に収めてやっと一心地ついた。
父は母から哀れみついでに新しい徳利をゲットして茫然自失状態から立ち直って自分だけのほろ酔いワールドを展開しているし、妹はすっかり私の健啖っぷりにゲンナリして自室に戻ってしまった。
私はげっぷをしながら立ち上がり、棚にあるタッパから緑茶の粉末を取り出して、お気に入りのシガーケースからホープを取り先にまぶした。
そして火をつけるとあら不思議。何が不思議かは大人の誰かに聞いてくださいね。


くつろいである程度時間がたった頃、母は洗い物から解放されてやっと居間の定位置(テレビ真正面の座布団)に陣取る事が出来た。
火燵にいそいそと入る母の背中はとても小さくなっていて、私は急に居た堪れなくなった。
申し訳ない気持ちで一杯になってしまったのだ。胃に物をあるだけ詰め込んだ反動も手伝って胸の辺りが苦しくなった。
どうにか気を紛らわそうと父をからかおうと思ったのだが、父はもううとうとして今にも突っ伏して寝てしまいそうだ。
私は面白くもないテレビを見ながら、どうすれば良いか考えた。
結局、タイミングを見計らって何気なさを装いながら、煙草の箱を母に渡すことしか出来なかったが。
「あら、有難うね」母はかじかんでぎこちなくなった手先で煙草を取り出した。私は何故箱から1本出してやらなかったのかと即座に後悔。
余計気まずい思いを勝手にして、思わず下を向いてしまった。
どうにかこの、一方的に気まずく思っている状況を打破したい。
そう思って母を盗み見るが、母は母で父が気になるらしくちらちらと私の逆方向を向いている。
この隙に部屋に逃げちまおうか……と思ったところで、妹が風呂から出たらしくガラガラと襖を開けて私の隣に陣取ると、勝手に煙草に火をつけて吹かし始めた。
「こらっ」私が妹から煙草を奪い返そうとすると「風呂空いたよ」とボソリ。
私は妹の意を即座に察知して「あ、ああそう」などとワザとらしくも席を立つ事に成功したのである。
その後に聞こえた「負い目感じるんだったら離婚なんかしなくちゃ良かったのに」には、今回だけは目を瞑ろうと思う。


今日はDaruoになったのでここまで。
ここまでといって続いた小説を書いた記憶がここんところないけどここまで。