批評ってのはどうやっても嫌らしい所業だねい。

久々に見たTackyのマテリアル(=彼の内面、及び内面に影響を与えたものに対する分析したエネルギーによって発生する、結露のようなものを中心とした詩的範疇の形式を取る文章のことと私的に定義)31は何故か心を軽く撫でるような、意思の水面に小さな波紋を感じさせるものだったのでちょっとそれについて話をしようと思う。
(未見の者はhttp://www.doblog.com/weblog/myblog/25736?YEAR=2005&MONTH=1&DAY=6を一読してから続きをどうぞ)


さて、この作品の感想を述べるにおいて、何の新しさを見受けられないという点をまず最初に挙げる方が多いと思う。
玩具とそのオーナー(それは少年であり少女である事が多く、自分を玩具としての視点にすることによる忠誠を表す)または、それを暗喩的に使用しての恋愛(主従を感じさせる様な恋愛)という関係を詩の題材にする事自体は実にありふれているものである。
そして、このマテリアルにおける玩具はオーナーに愛され、使用される事に至上の意味を見出している辺りもその点を強調しているのであるが、それも使い古されているのは明白であろう。


だが、この作品において唯一の刺激は「それがなけりゃ ただのゴミでしょ?」という玩具の台詞である。
唯一であるが故に、ではなく唯一であるためにこの作品が完成したといっても過言ではないだろう。
子供にとっての偶像崇拝といっても差し支えがないほどの夢の象徴である玩具。
首をもがれようと中の全てを抜き取られようと笑顔のままでいる人形、不似合いなインクで色付けされ、ベコベコになるまで壁に叩き付けられたビニル製の獰猛そうな怪獣。一生懸命尽くしているとしか思えないその玩具たちの意思が「それがなけりゃ ただのゴミでしょ?」。


一気に人形の、怪獣の目がスゥッと冷たく鋭い物に感じられ、ぞっとしないだろうか。
疲弊にも諦めにも似た、それでいて自分の職務をそれ以上無く理解している玩具たち。
きっと彼等は運命を呪いこそはするだろうが、子供たちを恨む事は決してないだろう。
それが故の、感じるその目。
蛋白質で出来ている人間が交通事故で片足を無くしても恨むのは人間であって蛋白質ではないのと同じように、人形であるからその運命を呪う。


ここでこの「それがなけりゃ ただのゴミでしょ?」ではなく、もっと同情を誘うような言葉であるのならこれほどに感じ入ることはなかっただろう。だが、こうも投げ遣りで諦観を伴う言葉であることによって、かえって訴えたいことを感じるのである。


この作品は先述の、恋愛や人間関係一般の暗喩な詩の常套句的技法であるとも取れる。
忠誠があるからこその私の存在価値でしょう? と投げかける自分の気持ちは矢張り自嘲な味を強く含む諦観。
自分と相手の関係がある程度固まった状況に於いて、それを打開せずに変化させない事の息苦しさと安寧、そして諦め。


「結局、この一文が言いたいからこの詩を作ったんでしょう?」という作品は詩において多く存在するが、この作品もそれに当てはまると思われる。そして、それはかなりの高水準で、少なくとも私の中における言葉の重みを感じさせたのである。